昨年度、メジャーリーグで最優秀選手賞(MVP)を受賞した大谷翔平選手。
27歳にして、世界のトップ選手として活躍する大谷選手に、両親はどのように関わってきたのか?
大谷選手の才能を伸ばすために何をしてきたのか?
子育て視点でお伝えします!
子供の才能を伸ばすという視点で、
とても参考になると思ったのが、以下の関わりです。
- よく見る、観察する
- 質の高いコミュニケーションをとる
- 子供の意思を大切にする、見守る
*このページの両親の発言は、
『大谷翔平 野球翔年 Ⅰ日本編2013‐2018』著者:石田雄太(文春文庫)
のインタビュー結果を引用して作成しています。本人や関係者の独自のインタビューをもとに、大谷選手が二刀流でメジャーMVPをとった原点をまとめた本です。とてもおすすめです!
大谷選手を成長させた親の3つの関わり
よく見る、観察する
私の父は、教師として長年勤めた教育のプロです。
父がよく言う親ができる大切なことに
「とにかく子供をよく見る、観察すること」
があります。
まさに、大谷選手のお母さん(加代子さん)は、よくお子さんのことを見ていました。
加代子さんは、国体出場経験のある元バトミントン選手ですが、野球については詳しくなかったようです。
しかし、自分の子供のことをよく観察して、なんとプロ野球球団(日本ハムファイターズ)が二刀流プレイヤーを大谷選手に提案する以前に、二刀流プレイヤーになったら良いと思い、本人に伝えています。
加代子さん:
「あの子と進路について話をしていたとき、『ピッチャーとバッターって、どっちもできないのね』って言っちゃったんです(笑)。私の中にも翔平がプロになるときはダルビッシュさんのようなピッチャーに、というイメージはありました。でも、高校時代のあの子はピッチャーとしては結果も残せなかったし、不完全燃焼で、バッターとして先に芽が出ちゃってるようにも見えました。だったら、両方やればいいのにって思ったんですけど、翔平はそのとき、『プロの世界はピッチャーもバッターも死にもの狂いでポジションを奪おうとしている世界なんだから、どっちもやりたいなんて、やってる人に失礼だよ』って言ってました」
二刀流プレイヤーとしての提案は、大谷選手をドラフト指名したプロ野球チーム日本ハムファイターズが、高校卒業後すぐに大リーグ行きを切望していた大谷選手を説得するために提案しました。
しかし、その前から、母親の加代子さんは大谷選手の高校時代の経験をもとに本人にとって両方やることが一番良いのではと見抜き、提案していたのです。
もちろん、野球に詳しくない母親からの提案を大谷選手は一蹴してしまいます。
母親は、大谷選手が怪我で高校時代ピッチャーとして十分な成績を残せていなかったこと、そこに心残りがあるということを見て、提案していたのです。
結果的に、母親の提案のとおりのことが現実となります。
大谷選手は二刀流プレイヤーとして日本のプロ野球と米国の大リーグで大活躍することになります。
子供のことをよく見て、観察することの大切さを感じます。
決して子供が目指す分野に詳しくなくても良いのです。
何が子供にとって良いのか、よく観察して考えてあげることが大事だと思いました。
質の高いコミュニケーションをとる
大谷選手が子供の頃、お父さん(徹さん)は、大谷選手が所属する少年野球チームの監督をしていました。
監督として時には厳しく接する必要があると同時に、父親として愛情いっぱいに関わる、
このバランスを取るのはとても大変です。
しかし、徹さんは大谷選手と丁寧にじっくりとコミュニケーションをとり、父親としての関わりを大切にしていました。
徹さん:
「監督として自分の子どもと接するのは難しい面もありましたけど、野球をするときには監督だから言葉遣いを考えなさいということは徹底させました。その分、家に帰ってすぐ一緒にお風呂に入るのです。そこではお父さんとして翔平と野球の話をする。こっちの話を聞いているだけでしたけど、今、考えれば大事な時間だったのかもしれません。中学2年くらいまではお風呂に一緒に入っていましたね。こんな話、翔平は嫌がるかもしれませんが(笑)」
大谷選手が、中学2年生まで父親とお風呂に入っていたのは驚きですが(うちの長男は小学6年生の頃から一人でお風呂に入り始めました)、少年野球チームの監督として厳しく接していたお父さんが、家に帰ると二人でお風呂に入りながら優しく言葉をかけてくれる。その言葉が自分だけのために自分の成長を願っていることが感じられるとすれば、本人にとってはとても嬉しいことであったと想像します。
質の高いコミュニケーションをとることで、子供は親から多くのメッセージを受け取り、成長の糧にしていたのではないでしょうか。
子供の意思を大切にする、見守る
大谷選手の両親は、子供の意思をとても大切にしていたと思います。
大谷選手は、高校時代に160kmのスピードボールを投げるピッチャーとして、高校通算56本塁打を打ったホームランバッターとして注目されていました。
本人は、高校3年間を通して常に目をかけてくれていた大リーグのスカウトに強く惹かれ、高校卒業直後に大リーグ行きを切望します。
これまで日本人で高校卒業直後に大リーグに行った選手はいません。韓国にはそのような選手はいましたが、十分な活躍はできていないそうです。
野球選手だったお父さんを中心にご両親は、大谷選手の選択に心から賛同はしていなかったようです。
しかし、頭ごなしに子供の選択を否定することはせず、大谷選手は大リーグ入りを公言します。
その後、日本プロ野球の日本ハムファイターズの指名、前代未聞の二刀流プレイヤーとして活躍する提案など丁寧な説得を受けて、大谷選手は日本のプロ野球に入ることを決心します。
ご両親は、大谷選手が大リーグ入りを目指していたのは、本人が前例のないことに挑戦する「冒険心」を強く持っていることを尊重していたのではないかと思います。
加代子さん:
「昔から翔平には人のできないことをやってみたいという冒険心があったと思うんです。花巻東(高校)に入るときも『雄星君(*)たちの代で全国優勝していたら違う高校に入っていた』と言っていましたし、メジャー挑戦すると言った時もパイオニアになりたいと言ってましたよね。誰もやったことのないことをやりたいんでしょう。私、『どっちもやるんじゃ2000本安打も200勝も無理だね』って言われたことあるんですけど、そのときに思ったんです。1000本安打と100勝の両方じゃ、ダメなのかしらって(笑)」
(*)菊池雄星選手のこと。菊池選手は、大谷選手と同じ花巻東高校の3つ年上の先輩。春の全国選抜大会で、準優勝。日本のプロ野球を経て、大リーグの選手として活躍。トロント・ブルージェイズ所属。
大谷選手は、高校で日本一になるために花巻東高校に入りました。
高校で注目された菊池雄星選手がいたときにも成し遂げられなかったことを目標にしていました。
大リーグ行きもこれまで誰もやっていなかかったことに挑戦したかったのでしょう。
日本ハムファイターズから、これまで近代野球では誰も実現していない二刀流プレイヤーとして活躍する提案を聞き、大谷選手はこの目標に挑戦してみようと思ったのです。
父(徹さん)は、二刀流プレイヤーの提案を受けたときに同席して、その時のことを
「本人は嬉しそうにしてましたよ。もう、やる気満々でした。」
と語っています。
大谷選手が高校3年生の時の好きな言葉が
「先入観は可能を不可能にする」です。
高校3年生の言葉とは思えないほど力強い意思を持った言葉です。
ご両親が、子供が何を大事にしているのか、
その子供の意思を大切にして、常識にとらわれない自由な発想で見守った
からこそ実現した大谷選手の成長だったと思います。
まとめ
27歳にして世界のトップ選手として、前人未到の活躍をする大谷翔平選手
ご両親がいかに大谷選手と関わり彼の成長をサポートしたか、以下の3つがあげられます。
- よく見る、観察する
- 質の高いコミュニケーションをとる
- 子供の意思を大切にする、見守る
子供の才能を伸ばし、大きく成長するために、ぜひ参考にしたいです。
Source:『大谷翔平 野球翔年 Ⅰ日本編2013‐2018』著者:石田雄太(文春文庫)
(本人や関係者の独自のインタビューをもとに、大谷選手が二刀流でメジャーMVPをとった原点をまとめています。とてもおすすめです!)