前編:幼稚園の製作、全部に意味があります
幼稚園の先生になる日が来るとは
幼稚園の先生になる日が来るとは、思ってもいませんでした。私はもともと幼稚園教諭になる気なんて全くなくて、小学校の免許を取ったら自動的にくっついてきた免許だったのです。
でも、これがありがたかった。我が子の子育てを大切にしながらフルタイムで働くには、小学校の担任は正直難しい。それに、自分自身がかつて子育て相談にのってもらえなかった保護者だった経験から、子育ての相談にのれる先生になりたかった。だから幼稚園の担任をすることにしました。
私を拾ってくれた幼稚園は、キリスト教の園でした。まず私が思ったことは——「狙われる~!」でした。パキスタン時代の、宗教による敵対意識やテロリストの存在への緊張が、まだ体の中に残っていたんです。「こんな低い門で大丈夫?」「不審者が来たら誰か話しかけて引き留めに行くって、なんでその人が銃や爆弾を持ってないって言えるの?」「さすまた?」——命がけの訓練をしてきた身からすると、日本の「平和な」安全対策は、頼りなく、正直ちょっと滑稽にすら映りました。でも同時に、それこそが「平和な国で生きる」ということの証でもあるのだと、後から気づくことになります。
「小学校みたいな幼稚園」、その理由
幼稚園には、一人一台の机と椅子、道具箱が与えられています。私はもともと小学校出身だったので、これを当たり前だと思っていました。でも、のちに保育園で働く経験をして、これがどれだけ大切なことか驚くことになります。子どもの中には、「好きなところに座っていい」が「どこに座っていいかわからない」「友達と揉める」を意味する子がいます。自分のスペースがあると、落ち着ける。安心するのです。片付けや忘れ物も「誰の責任か」声をかけやすい。こうして、自分の物の管理に責任を持つよう教育されていきます。
全員同じ個人製作(絵や工作)をやるのも、一つ一つに発達の意図があります。ちぎるからハサミを使うへ。指の感覚を大切にしてのりを貼る。のりの量を調節する。先生の話を聞き取って理解し、最後まで聞いてから行動に移る。指示通りに作る。絵も段階的にレベルを上げていく。ボタンの制服を「面倒」と言う親御さんもいらっしゃいますが、それも指先の発達のためです。3年間かけて組まれたカリキュラム。ここは幼児教育の場です。
保育園と違って、幼稚園は一人の担任が一日を通して子どもを見ます。だから保護者との信頼関係も築きやすいし、子どものこともよく把握できる。職員間の連絡ミスも起きにくい。ママたちも基本毎日お迎えで顔を合わせるから、情報を共有しやすい。私は、家庭保育と園での保育は対極にあるものではなく、一つの円になっていると考えています。家庭と園、協力して子どもを育てる。一つの円として。
保護者の協力があってこそ、というのも大きなメリットです。餅つきなどは、職員だけではなかなか難しい。絵本の読み聞かせや、コーラス、ダンスなど、お母さんたちがお誕生会の出し物をしてくださって盛り上げてくれることも、子どもたちには喜びの一つです。
教育とは、外に引き出すもの
幼児教育は、教育です。子どもは力を持っていると信じて、その力を引き上げる。「教育」という言葉の語源が示す通り、それは「外に引き出す」ものです。私が担任をしている間、職員室の机に貼って大切にしていた言葉があります。南アフリカ共和国で子どもたちが通っていた学校の先生たちが、毎朝の職員ミーティングの前に唱えていた言葉です。
「教育者としての役割は、その子の障害となっているものを取り除き、その子の魂が自由になるのを助けること」
幼稚園は教育です。そうは言っても、まだ幼い子どもたちです。ここまで求めなくてもいいのではないか。自然ではないのではないか。詰め込みすぎではないか——正直、気になった点もあります。幼児教育といっても、今は「自由保育」が主流になってきています。園側が1日の動きを決めておくのではなく、その日の子どものやりたいことや興味から保育を発展させていくというやり方です。一見、楽なようですが、実はこちらの方が指導者の力量が必要だと思います。