教員に「なりたくなかった」私が、結局教員になった話
私の両親は、二人とも教員でした。育ったのは「陸の孤島」と呼ばれるような田舎村。汽車は1時間に1本、大学に通える距離では通えず、進学する子はみんな一人暮らしをするしかない、そんな土地です。しかも私は、代々続いてきた家の跡取り娘。もう、逃げ場なしです。
田舎には仕事の種類なんてそんなにありません。「まあ、なんとなく教員になるんだろうな」——そう思われていたと思います志、自分でもそう思っていました。でも私、実は教員になんてなりたくなかったんです。当時の私の夢は国際協力。世界を飛び回って、困っている人を助ける仕事がしたい!と、本気で思っていました。
そんな私に、父はこう言いました。「教員は男でも女でも平等。国際協力なんて、どうやって飯食っていくんだ」。ぐうの音も出ませんでした。かといって、医者になれるほどの根性もない。というわけで、保険のつもりで教員養成の大学に入学から、人生は分かりません
とはいえ、大学に入っても国際協力への未練は消えませんでした。だから、大学を出た後、結局は海外へ飛び出しました。
面白いのは、その父自身も、後に日本人学校の校長として、海を渡ったことです。先進的な考えを持った先輩に憧れて、その道を選んだのだと聞いています。もしかしたら父自身も、本当は外に出てみたかったのかもしれません。似た者親子、というやつでしょうか。
不思議な絵本の記憶
一つ、自分でも説明のつかない話があります。幼稚園の頃、月刊で絵本が配られていたのですが、ある月に届いたのが、マザーテレサの絵本でした。なぜあんなに幼い自分が、あの絵本にこんなに惹きつけられたのか、今でも分かりません。ただただ、夢中で読んでいたのを覚えています。その絵本は、今も大事に手元に残しています。もしかしたら、あの絵本が、後の「国際協力への憧れ」の種火だったのかもしれません。
なぜ「教員」が好きなのか
散々「なりたくなかった」と言っておいてなんですが、いざ働き始めると、私は人に教えることが本当に好きでした。それも、まだ何色にも染まっていない、未来のある子どもたちに関わることが。卒園や卒業、あるいは自分が異動で離れるとき、私は決まって子どもたちにこう伝えます。「あなたたちは、未来の地球をつくる地球人ですよ」。保護者の方々には、「あなたが育てているのは、未来をつくる子どもなんですよ、胸を張って大事に」と。行事で子どもたちと一体になる瞬間、成長を目の当たりにする瞬間が、たまらなく好きです。同じように、人に興味を持つ先生たちと働くのも、大好きでした。
幼稚園、保育園、小学校。それぞれ選んだ理由
なぜ幼稚園で働いたか。家庭との両立のためです。仕事でクタクタ、我が子はほったらかしは嫌だった。一番教えたくて、一番関わりたかったのは、我が子でしたから。
なぜ保育園でも働いたか。単純な好奇心です。それまで勤めていた園と、方針が正反対の教育を、この目で見てみたかったんです。
小学校では、最近は担任ではなく、時間契約で音楽や図工の専科、あるいは知的障がいのある子どものクラス、発達に配慮が必要な子が通う通級を担当していました。理由はやっぱり家庭とのバランス。担任の仕事量は膨大で、予定外のことの連続、心を掻き乱される日常茶飯事。専科の仕事は、最初は正直つまらない物足りないと思っていました。けれど今は、これが気に入っています。担任のような濃密な関わりとは違って、近所のおっちゃん・おばちゃんみたいな、ちょっと斜めの距離感で子どもと関われるからです。
正直な気持ち
本業と胸を張れるほどのキャリアではないかもしれません。バリバリ働く同級生が、担任や校長先生として活躍しているのを見ると、正直、羨ましくなることもあります。でも同時に、その先生を見ていると、なんだか自分の夢を代わりに背負って走ってくれているような気がして、勝手に応援したくなるし、勝手に好きになってしまうんです。
それから、もう一つ好きなこと。後輩の先生を育てることです。自分が現場でバリバリ、とはいかなくても、次の世代にバトンを渡していく。そこに私なりのやりがいを見つけています。
私という人間
私は好奇心が強くて、いいと思ったことは、すぐ人に広めたくなる性格です。決まりきった教科書通りの理由だけでは物足りない。柔軟に、いろんな背景や大人の事情、実際の事例も含めて伝え考えさせたい。そういう欲張りな性分が、結局は「教員になりたくない」と言いながらも、これだけちょこちょこ教育に関わり続けてきた理由なのだと思います。