教育を受けられることは、当たり前じゃない——パキスタンで見た、ある教室の風景
パキスタンで暮らしていた頃、JICAの青年海外協力隊が活動している現場を見学させてもらう機会がありました。そこで目にした光景は、今でも忘れられません。
中学を卒業したばかりの若者が、教師として立つ教室
案内された教室で教壇に立っていたのは、わずか中学を卒業したばかりの女性でした。先生は生徒たちに「質問はありますか」と尋ねます。けれど、生徒たちは決まって「ありません」と答えるのです。理由を聞いて、胸が痛くなりました。質問をしても、先生自身がその答えを持っていないから。そして、イスラム教の教えの中で、目上の人を敬うことが強く重んじられているから。生徒たちはただ黙って、一方的に教わり、聞くだけの授業を受けていました。
私自身、日本で教員養成課程を経て教壇に立った身です。その過程がどれほど手厚く整えられていたか、この光景を見て初めて実感しました。教室の設備や学用品も、私立学校とは違い、公立の教室は総じて質素なものでした。学べる科目の数も、日本よりずっと限られていました。
ジェンダーによって閉ざされる、学びの機会
イスラム教の影響で、男女の役割に対する意識も非常に強いものでした。音楽は「娯楽」にあたるとされ、学ぶこと自体を良しとしない人たちもいました。体育の授業もありません。校庭で縄跳びの前跳びを見せただけで、周囲から「すごい」と歓声が上がる。二重跳びではなく、ただの前跳びです。それほどまでに、体を動かして遊ぶという経験そのものが、限られていました。パキスタンは奥さんが太い方が好まれます。それが富の象徴だからです。
そして、パキスタンのすぐ隣には、アフガニスタンがあります。タリバンという組織が、女子が教育を受けることそのものを禁じていました。学びたくても、学ぶことを許されない子どもたちが、すぐ近くに存在していたのです。16歳で国連でスピーチをしたパキスタン人のマララ。家族親戚も含め命懸けだったはずです。「一人のこども、一人の教師、一冊の本、一本のペンで世界は変えられる。」「武器より一冊の本をください」図書室に置いてあるのではないでしょうか。
それは、パキスタンだけの話ではない
こうした教育の格差は、パキスタンだけの話ではありません。世界に目を向けると、学齢期の子どもの6人に1人が、学校に通うことができていません。とりわけサハラ以南のアフリカでは、5人に1人以上の子どもが就学できていないのが現実です。経済的な貧しさから学費が払えない、家計を支えるために働かざるを得ない、あるいは水を汲みに行くだけで片道2〜3時間かかり、通学そのものが物理的に不可能な地域もあります。教育を受けられないという状況は、決して特別なことではなく、今この瞬間も、世界のどこかで起きている「普通のこと」なのです。
教育を受けられることの、当たり前ではない尊さ
日本の子どもたちは、毎朝当たり前のように学校へ行き、当たり前のように黒板の前で質問をし、当たり前のように音楽室で歌い、校庭で体を動かします。けれど、その「当たり前」は、世界を見渡せば、決して当たり前ではありません。
日本の教育制度には、確かに改善すべき点がたくさんあります。それでも、すべての子どもに平等に開かれた学びの場があるということ自体が、実はとても恵まれたことなのだと、パキスタンで見たあの教室の光景を思い出すたびに、私は思うのです。学ぶことができる。それがどれほどの喜びであるか、日本の子どもたちにも、いつか知ってもらえたらと願っています。だから私は学びの機会が与えられた我が子が、何かしらの形で地球に貢献することをずっと願っています。