肩書きがなくても、教員としての経験は生きる
長女が小学部に上がり、次男が幼稚園に落ち着いた頃、私は三男を遊ばせながら、幼稚園でボランティアをさせてもらえることになりました。正規採用でも、給料が発生するわけでもありません。それでも、これまで積み重ねてきた教員としての経験や技術は、肩書きの有無に関係なく、確かに求められ、生かされていくのだと実感する日々の始まりでした。
伴奏者として、緊張の中に立つ
四男が保育園に入る年齢になった頃、小中学部で音楽の伴奏者を探しているという話が舞い込んできました。ピアノを弾く私に声がかかり、そのまま採用されることに。クラシックの伴奏に合わせて、生徒たちが集団で体を動かしていくオイリュトミーの授業です。私が一音でも外せば、生徒全員の動きがずれてしまう。ミスの許されない緊張感がありましたが、それ以上に、先生や生徒一人ひとりの顔が見える距離で関われることが、何より楽しい時間でした。
日本の遊びが、学校の伝統になるまで
ランタンフェスティバルが近づいてきた日仲の良いスタッフと火をつけるトワリングができるという話をしていると、イベント当日にやることになりました。翌年の体育祭には、イギリスで学んだシュタイナーのクラフトのショップを出して、得たお金でスチール棒を買い、自分でトワリング棒を作りました。そして希望する中学生数名に教え、ランタンフェスティバルで披露させてもらいました。この伝統は今も続いており、現在はプロのファイヤーダンサーを呼ぶまでのイベントに育っているようです。
また別の日、「ドラゴンにちなんだ手遊びはないか」と尋ねられ、とっさに思い出したのが日本の「でんでらりゅうば」でした。教えてみると、先生と子どもたちはすぐに気に入ってくれました。それから10年経った今、その学校の先生から「みて」と全校生徒で「でんでらりゅうば」をやっている動画が送られてきました。毎年全校生徒でこの手遊びが歌い継がれているそうです。子どもに何かを「教えて、根付かせる」という感覚、それが日本から遠く離れた国だと不思議な感覚です。
日本人家族は私たちを含めて4家族しかいませんでしたが、学校に掛け合い、JAPANESE DAYを開催させてもらったこともあります。日本人の子どもたちに和太鼓を一曲教え、他のご家庭にも協力してもらいながら、ヨーヨー釣り、習字、折り紙のブースを出しました。太鼓を愛する国民性もあってか、和太鼓は特に大きな歓声を浴び、大成功のうちに終わりました。企画を立て、役割を割り振り、当日を回す——これも教員として身につけたスキルでした。
本物に触れた、シュタイナー教員研修会
南アフリカでは、シュタイナー教員たちが数日間にわたって集まる研修会が毎年開かれています。会場は持ち回りで、年によっては泊まりがけで遠方まで出向くことも。その年は、車で1時間半ほどのシュタイナースクールが会場になりました。子どももまだ小さく、丸一日家を空けるなんて、と最初は迷いましたが、夫が背中を押してくれて、参加することに決めました。
行ってみると、そこは想像をはるかに超える本物の世界でした。シュタイナー建築そのものの校舎、オイリュトミーの実演、数々のワークショップ、ストーリーテリング、そしてウェービング。すべてが、本や写真でしか見たことのなかった「本物」でした。
中でも忘れられないのが、ある出会いです。日本にいた頃、友人からシュタイナー人形をプレゼントしてもらったことがありました。その人形を手作りしたという南アフリカ人の先生と、なんとこの研修会で実際に出会ってしまったのです。地球の裏側で受け取った小さな人形が、作った本人と目の前でつながる——そんな偶然に、しばらく言葉を失いました。
家庭を、地域に開く
学校の外でも、できることを続けていました。新しく着任する日本人の子連れ家族の生活立ち上げを手伝ったり、月に2回、自宅を開放して親子リトミック教室を開いたりもしました。別々の幼稚園や学校に通う母子にとって、それは交流と息抜きの時間になることを願って。
中には、日本にいれば当然参加できたはずの、5年生の宿泊訓練を経験できずにいる子どもたちもいました。大学のキャンプリーダーをしていた私にはそんなことお茶の子サイサイ。それなら、と我が家でその代わりを企画したこともあります。
正規のポストも、給料も、肩書きもない。それでも、教員としての経験と技術は、どんな環境に置かれても色褪せることなく発揮できるのだと、南アフリカでの日々が教えてくれました。10年経った今も歌い継がれている「でんでらりゅうば」のように、形は違えど、誰かの中に残り続けるものを渡せていたなら、これほどやりがいのあることはありません。